2017年9月27日水曜日

AMBの筆写譜とC・D資料


資料の系統についてはこれまで何度も言って来たように、C資料・D資料、及びパリ初版譜を作成するための資料であるE0資料は、アンナ・マグダレーナ・バッハ(以下AMB)の筆写譜の子孫である。このことはぼくが資料の研究を始めてから比較的初期のころに気付いたことで、普通に研究すればおそらく中学生でもわかることだと思うのだが、これまでの無伴奏チェロ組曲研究の歴史において、いまだにぼく以外だれも主張していない。そして2016年末に出版された新バッハ全集改訂版においてさえ、そのことには気付いていないのである。

前の記事にも載せたが、詳しい解説はいずれまた行うこととして、現在ぼくが考えている資料の系統図をここに再掲しておく。(2018年8月24日改訂)


言うまでもなく、資料の系統をどう捕らえるかは楽譜の作成に大きな影響を与える。言い換えれば、バッハの自筆譜にできる限り近づけるには、資料の系統もできる限り真実に近づけなければならない。ぼくの考えではC・D・E0資料及びそれらの親資料であるG資料がAMBの子孫であることは、資料系統の基礎の基礎である。そしてそれは資料系統研究の課題の中でも比較的易しいものの部類である。

今後演奏者及び研究者が従来の研究に惑わされることのないように、この記事でこの問題を集中的に扱うことにする。少し長くなるが、研究者の方は最後まで読んでいただきたい。

これまでにAMBとC・D資料に共通のミスは17ヶ所、そしてミスである可能性があるものが3ヶ所見つかっている。 


17ヶ所の内、リスト番号1、3、6、9、10、11、12、14、15番は歴代のチェロ組曲校訂者のほとんどすべてによってミスと認められているものであり、異論が全く無いか、あっても極めて少ないものである。しかしその他のものでも、第5組曲に関してはバッハ自身によるリュート用編曲(BWV 995)が存在しており、それと照らし合わせれば7、8、13番も異論の余地無くミスであることが確認されるのである。例えば8番については無視されたリュート組曲(2番目の項目)で既に触れた。

残る2、4、5、16、17番はミスと考える者とミスではないと考える者に大きく分かれている(その割合は様々である)が、その内の5、16、17番については既に別の記事で解説した。

     5 → 早すぎたフラット
   16 → 第6番ジークについて
   17 → バッハ「無伴奏チェロ組曲」第6番について(一番下の項目)

残るは2、4番だけだが、前者(第2組曲アルマンドの第9小節)に関してはなぜこのような明白なミスについて意見が分かれるのかわからない。AMB(及びC・D資料)では2拍目が2声あるのに対して3拍目は1声しかない。


これが不自然なのは普通の耳を持っていれば誰でも気付くことで、他の資料を見なくてもaの音が欠けていることは想像が付く。そして事実ケルナーではそこにaがあるのである。


和声学的に説明すると、2拍目最後の16分音符のaは和音(ここではe-g♯-b)外の音で、3拍目の和音(d♯-f♯-a)の一部を先取りしている。このような音を「先取音」(anticipation)と言うが、それは次の和声音があってこそ存在する意味があるのであって、よほどの特殊な効果を狙った場合は別として、次に来るべき和声音が消えるなどということは無い。

残るリスト番号4番については後で述べるが、このような共通のミスが1、2ヶ所ぐらいならともかく十数ヶ所もあるということは偶然ではあり得ない。

AMBがバッハの自筆譜から直接筆写したことは、作曲者の家族という立場や、例えば「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」が(レイアウトの類似などから)ほぼ確実に現存する自筆譜から直接筆写したと考えられることなどから、間違いないと言っていいだろう。このことからこれらの共通のミスがAMBによって起こされ、それがG資料を通してC・D及びE0資料に伝わったことは間違いないと言えるだろう。

他の例をいくつか見てみよう。

第4組曲プレリュードの第16小節の2つ目の音D♭については「早すぎたフラット」(上図のリスト番号5)で述べた。記事で書いたように、このフラットが現れるのは小節の途中で五線の段が変わるところである。そのため原稿であるバッハの自筆譜とAMBの筆写譜との間で視覚的混乱が起こり、誤ってこのフラットが付けられたと考えられる。従ってこのフラットを最初に書いたのはAMBであり、それがG資料、さらにC・D・E0資料にまで伝わったのである。

上の例では和声学的な見地からフラットが誤りであることは証明できるし、またケルナーではフラットがないことがより確実な根拠を与える。しかし例えば第6組曲ジークの第18小節後半(リスト番号18)のように和声的には間違っていない場合もある(下図右側の小節)。→ バッハ「無伴奏チェロ組曲」第6番について


この場合は楽曲の構成的に、つまり曲の始めにニ長調で提示された主題が、ドミナントであるイ長調で再び提示されている場面であるが、その主題をわざわざ変形する理由が見当たらないのである。ましてやこの変形はあまりにみすぼらしく稚拙である。しかし自筆譜という証拠が無いため、バッハが何らかの理由で主題を変形させたのだという主張を完全には退けられない。

しかし唯一第5組曲だけはバッハ自身によるリュート用編曲(BWV 995)が残されているのでバッハの意図を確認することができる。そしてまた上図のリストにおいて第5組曲が一番数が多い(7ヶ所)というのも興味深いことである。

非常にわかりやすい例としてはクーラントの第3小節冒頭のバス音(リスト番号9番)が挙げられる。AMB及びC・D資料、パリ初版譜ではcであるが、ケルナーとリュート編曲ではe♭である(リュート版はト短調に移調されているので実際にはb♭)。同じ小節の後半でチェロ組曲にはないバスの追加があり興味深い。さらに和声学的にも第2小節の終わりから第3小節への進行は、d-dの8度からc-gの完全5度への下行進行になり、これは並達(あるいは直行)5度と言って避けるべき進行である。


音楽的にも曲の冒頭からバス音がc - d - e♭- f - gとトニックからドミナントまで上昇して行き第5小節で再びトニックcに戻るという典型的なバス進行であり、もしリュート編曲が無かったとしてもケルナーが正しいことは容易にわかる(それにもかかわらずヘンレ版がこれをcとしているのは全く理解に苦しむ)。従ってこれもまたAMBのミスがG資料そしてC・D・E0資料に伝わったのである。

しかしながらわずかな可能性として、AMBもG資料も共にバッハの自筆譜から筆写されたある一つの資料から筆写されたため共通のミスがあるのだ、と考えることもできるかもしれない。しかしある観点からその仮説は否定される。それはAMBの筆写譜における「書き直し」によってである。AMBが音符を書き間違えた場合、いくつかの例ではナイフで削って書き直している。

   第1組曲メヌエット1、第23小節:


しかしほとんどの場合、削ることなく単に間違えた音の上から正しい音を重ね書きしている。そして時々ではあるが正しい音名を文字で示している。

   第3組曲アルマンド、第23小節:


この例ではgを書いた後にその上からfを書き、下に小文字でfと書いている。しかしほとんどの場合、文字を書くことは無い。そのため判別が困難な場合があるのである。

2つの重要な例について見てみよう。

   第3組曲ジーク、第24小節(左から2小節目)の最後の音(リスト番号4番):


この例ではdとeの2つの符頭が重なっている。そしてC・D資料ではeを採用しているが、ケルナーはdであり、また興味深いことにパリ初版譜ではC・D資料とは異なり、dを採用しているのである。そしてグリュッツマッハー、フルニエ、トルトゥリエ、また新バッハ全集改訂版など一部の出版譜ではeを採用しているが、これは音楽的にはあり得ないと言ってよい。

   ケルナー:

   C資料(D資料も同じ):


一見、第21小節からのdのペダル音(保続音、オルゲルプンクト)が第25小節(上図3小節目)最初のfに滑らかに移るための経過音としてeが挿入されたと思うかもしれない。しかし音楽的な役割から言って、このペダル音は第25小節からの低音のペダル音gに受け継がれるのであって、上声のfにではない。そして同様に第21小節からの下声の旋律は第25小節からの上声に受け継がれるのである。簡略化した楽譜で示すと分りやすいだろう。


この明快な役割分担の中に、経過音eの入り込む余地は無い。バッハの自筆譜はdであり、AMBは誤ってeと書いた後にdと書き直したのである。G資料の筆記者は判断を誤りeを採用してしまい、それがC・D資料に伝わったのである。これはG資料の筆記者が原稿としてAMBの筆写譜を使用したからこそ起こったミスであり、もしAMBを見ていないにもかかわらずこのような同じミスを犯す可能性は、限りなくゼロに近い。

もう一つの例はこの「書き直し」とリュート編曲の両面から検討できる最も決定的な例である。これについては無視されたリュート組曲の前半で既に述べたので参照してほしいが、第5組曲プレリュードの第193小節、3番目の音をAMBはgとaの音を重ねて書いているが、


ケルナーはa♮、C・D資料はgと分かれている。しかしリュート編曲ではa♮(原調ではe♮)であり(下図上段はテナー譜表、下段はバス譜表)、


ケルナーが正しいことが証明される。AMBは誤ってgを書いた後にaを書いたのである。これもG資料の筆記者がAMBの筆写譜を使用したからこそ起こったミスである。

以上の2つの「書き直し」の例ほど決定的でなくとも、AMBがバッハの自筆譜から直接筆写した可能性が高い以上、その他の共通のミスもAMBからG資料に伝わった可能性が高い。それらが全体で17ヶ所もあることを考えると、C・D・E0資料がAMBの筆写譜の子孫であることは疑いようの無い事実だと言ってよいのである。

各資料の関係を最初に系統付けたのは1988年の新バッハ全集版におけるハンス・エプシュタインだと思われるが、それから既に約30年の年月が経っている。もうそろそろC・D・E0資料がAMBの筆写譜の子孫であることは、「無伴奏チェロ組曲」研究者の間での共通認識になってほしいものである。

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2017年9月19日火曜日

資料比較研究

 

~自筆譜の復元を目指して~


2013年に横山版のスラーなし版を一応完成させた後、スラーのある完全版を作成することは当然次の目標となり、試みとして第1組曲全部と第3組曲の一部のスラーあり版を作成をした。しかしその他の組曲についてはなかなか取り掛かれないでいた。

そこへ2016年の終わりに新バッハ全集改訂版が出版されたことは大きな刺激になった。この改訂版については手厳しく批判したが、それは楽譜として多くの部分で進展していないどころか後退さえしてしまった部分があるからで、それとは反対に資料研究の点では進展したところもあり大いに参考になったのである。

とりわけ、これまでケルナーの筆写譜はバッハの草稿から、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜はバッハの清書楽譜から写譜されたと考えられて来たのが、実は唯一つの自筆譜に由来しているという校訂者Talle氏の指摘は、様々な点から納得できるものである。しかもその自筆譜も草稿であって、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」のような清書楽譜は書かれなかった可能性が高いということである。

ともかくぼくとしてはこの改訂版の登場により新たにチェロ組曲のスラーを含めた完全版を作る意欲がわいて来たので、これから各資料の比較研究を公開して行こうと考えたのである。そこでこれまでの資料間の系統図を次のように改定した。
(2018年8月24日、再改訂)


バッハの自筆譜が一つだけになり、その他の資料の配置が変わった。ケルナーの筆写譜をI資料の下に置いたのである。これによりケルナーとG資料の間に直接の関係がないにも関わらず、共通点があることを説明できると思う。I資料はチェリストが実際に演奏するためにバッハの自筆譜から写譜したものであろう。またパリ初版譜の資料となったものをE資料と呼んでいたが、一般にはパリ初版譜をE資料と呼んでいるので混同しないようE0(イーゼロ)資料と呼ぶことにする。

また新たにドッツァウアー版も加えたが、ここに書かれているのは一般に考えられている関係であり、実のところC・D資料、パリ初版譜、ケルナー、ドッツァウアーの関係は疑問だらけであり、これも研究を進めて行くうちに解明されるかもしれない。 


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