~「平均律」にもマタイ受難曲にもあるこの和音のどこが奇妙なのか?~
もういい加減にしろ!という思いから、無視されたリュート組曲 からこの項目を独立させることにした。正直言って、バッハ研究者には資格試験を施す必要があるのではないか、と思う程である。
第5組曲アルマンドの第25小節冒頭の和音は、歴代のチェロ組曲校訂者の無知によって馬鹿げた改変が今もなお続けられているのである。
冒頭の和音とは次のようなものである。
ケルナー:
アンナ・マグダレーナ・バッハ(以下AMB):
C資料:
D資料:
パリ初版譜:
ケルナー以外はスコルダトゥーラ(変則調弦)表記なので、一番上のB♭は実際に鳴るのはA♭である。すなわちこの和音は下からG-D-A♭という、それだけでは確かにやや奇妙に響く和音である。そのため最低音のGは歴代の校訂者たちによってB♭に改変されて来た。最初にこの改変を行ったのはドッツァウアー(1826年)である。
そしてこの改変はグリュッツマッハーにも受け継がれ、旧バッハ全集(1879年)までが採用して決定的なものとなる。
ところで第5組曲はバッハ自身が後にリュート用に編曲している(BWV 995)。そこではバッハはチェロよりも弦の多いリュートの特性を生かして、次のように5つの音を書いているのだ。このリュート用編曲ではチェロ組曲の調(ハ短調)よりも5度高いト短調に移調されており、上段はテナー譜表に、下段は通常のバス譜表(ヘ音記号)に書かれている。従ってその構成音はD-F-A-C-E♭である。
リュート組曲(2段に分かれたものを合成):
わかりやすいように、チェロ組曲と同じハ短調に移調してみよう。構成音はG-B♭-D-F-A♭となる。
バス音はチェロ組曲同様Gであり、その上に3度間隔で4つの音が重ねられている。ただこれだけでは何だか密集した音の塊にしか見えないだろう。そこで次の図を見ていただきたい。
ハ長調に移調したもの。
そしてこのアルマンドの和音は、そのバス音が上の図の右側のようにトニックの代わりに音階の第3音(メディアント)になっているのものなのである。バス音がトニックの場合に比べてまれではあるが、バッハの他の作品にも見られるものである。それぞれ黒い音符で示した和音に解決される。
しかしそれにもかかわらず、20世紀のスタンダードと言うべき、ヴェンツィンガー版などは校注で、AMBもケルナーもリュート組曲(つまりバッハ自身!)もみんな間違っていると言ってのけている有様なのである。
ドッツァウアー以降でこのバス音Gがちゃんと正しく書かれたのは1988年の新バッハ全集版(ハンス・エプシュタイン校訂)がおそらく最初であろう。その後はイッキング版、ヘンレ版、ウィーン原典版など、このGを書く版も多くなって来た。
しかし、ここに来てこのB♭が亡霊のように復活してしまったのである。しかもあろうことか、エプシュタインが百数十年ぶりに正しく直した新バッハ全集のその改訂版においてなのである! そこで校訂者(Andrew Talle氏)は「奇妙な和音」(the bizarre chord)などと言っているが、奇妙なのは校訂者の方であって、何の権利があって自分がわからないからと言ってバッハの書いた音を勝手に修正するのか?なぜ同じ和音がバッハの、あるいは他の作曲家の作品にないか探そうとしないのか?あるいはより和声に詳しい他の音楽学者や作曲家などに尋ねてみようとしなかったのか?
さてこの和音のバッハ自身の使用例を見てみよう(もちろんチェロ組曲とリュート用編曲を除いてという意味だが)。ぼくは今のところ10個の例(14ヶ所)を見つけている。 探せばもっとあることは確実である。また確かな根拠があるわけではないが、この和音は何となくフランス趣味のような気がするのでフランスの作曲家の作品の中にあると思い、フランソワ・クープランの作品を調べてみたところいくつかの例を見つけた。まずはそちらから紹介しよう。
第2オルドル(Second Ordre)より、アルマンド"La Laborieuse" 第23小節。
ルソン・ド・テネブルより「二声による第3ルソン」"Mem"。
以下はバッハの作品より
「平均律クラヴィーア曲集」第1巻第7番、変ホ長調プレリュード、第18、21、50小節。
「平均律クラヴィーア曲集」第2巻第3番、嬰ハ長調プレリュード、第11小節の最初の和音。上の2段はわかりやすいようにハ長調に直したもの、下の2段はバッハ自身が書いたこの曲の原型(BWV 872a)である。
同じく 「平均律クラヴィーア曲集」第2巻より、第16番ト短調のプレリュード、第12小節1拍目。これは(この部分では)チェロ組曲と調も同じなので解りやすいだろう。
もう一つ「平均律クラヴィーア曲集」第2巻より、第21番変ロ長調のプレリュード、第58小節。
フルート・ソナタ ロ短調(BWV 1030)、第2楽章第13小節(バッハの自筆譜)。
「マタイ受難曲」終曲の第11小節冒頭。一瞬ではあるがこれも調が同じである。第23、91、103小節も同様。
もう一つ、「ミサ曲ロ短調」よりグローリアの第56小節。合唱部とバスのみ。器楽部は省略。この例は速すぎて、耳にはほとんど気づかれないが(笑)。
同じく 「ミサ曲ロ短調」よりクォニアムの第14小節と第91小節(音楽的に同じ。ここでは第91小節を載せる)。
まだまだ見つかりそうだが、これ以上探す必要があるだろうか?このようにバッハ以外の作品にも、バッハの他の作品にいくつも使用されている和音であり、この「奇妙な和音」がバッハの意図したものであることに疑いの余地など全くない。改変など言語道断である。またお持ちの楽譜がB♭なら直ちに修正していただきたい。
自己評価 G(100%) ★★★★★ B♭(0%)
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